表現という行為の構造

文学における隠喩表現を出発点に、表現という行為にメタファー的思考が含まれていることを明らかにし、その行為が自己の変容にどのような効果をもたらすかについて、フロイト的精神構造論やアートセラピーの観点を引用しながら、考察を行ってみる.

プルーストの文章の中に意識・意図の制御によらず突然におこる、非意思的な行為が散見されると、大学の授業で紹介があった.

これは人間の非意思的な行為への感情の投影と考えられるが、行為のみならず、身の回りの事物や環境に対して自己の感情を投影することは、”すべての事物・事象をがメタファーとして捉える”行為だと捉えることできると考える.

すべてをメタファーとして捉えるといったような思想は、小説、映画や哲学において散見される.

映画「雨の日は会えない、晴れた日は君を想う」での主人公のセリフでもそのようなフレーズが見られ、村上春樹の「海辺のカフカ」では「世界は万物のメタファーである」と表現されている.

ベイトソンは、主体・客体の分離の世界観をもつデカルト以降の近代的世界は、それ以前の呪術的世界感や錬金術の思想に込められている、世界と自分との一体として捉える(世界は自分のメタファーであり、自分は世界のメタファーであると、無意識的に捉える)感覚を失っていると主張した.

すべての事物・事象をメタファーとして捉えるという視座は、何らかの対象物を認識するとき、その認識の枠組みやその認識を行うあらゆる欲動や情動に、意識的/無意識的に規程されている、という前提に依拠しているだろう.

自己が観察を行う事物・事象は、すべてその自己の認識の枠組みが投影されたものであり、すなわち観察した事物・事象は、あらゆる意識的/無意識的自我のメタファーである.

表現という行為は、そのような自己が投影された対象物について、徹底的に観察や考察を行うことである.

この行為は、対象物を通して自己を観察するという行為であり、その時点で自己はメタ的なレイヤーに移動している.

例えば、画家が見えたものを書くといったことを言った場合、その発言から二つの考察を行うことができる.

1つ目は、自己の見えたものを認識と言っている時点で、自分はメタ的なレイヤーに移動している、ということ.

二つ目は、書くという行為を通して、”自分が見たもの”をメタ認知している、ということである.

ここでいう”見たもの”が自己が投影されたものであり、すなわちこの画家はメタ的なレイヤーから、自己を観察しているということになる.

このメタ的なレイヤーからの自己への観察を通して、意識的な思考の過程では巡り会えないような、自らの無意識に潜んでいる潜在意識や抑圧された情動に対する認識を行うことが可能になる.

他にも、村上春樹は書くことで初めて自分(の気持ち、もしくは自分自身)のことを理解できるようになるといった発言をしているように、書くことで初めて自分の気持ちを理解するというのも好例である.

書くという行為は自分の心を覗くための窓のようなものであり、この点において、筆によって自分は自己認識の場所へと誘われることになる.

書くという行為自体が、自己のメタ認知を可能にし、自己対話を可能にする.

アートセラピーなる言説が可能になるのも、表現という行為の中にメタファー的思考構造を含むからであるだろう.

自己への回顧は自己認識を促し、自分の存在を肯定や自己変容を促すだろう.

しかし、ここで私が一つ留意しておきたいたいのは、必ずしも表現を通して行われるメタ的な自己認知は、意識的な行為とは限らないということである.

そのような自己変容は無意識的な階層で起こることもあり得るので、自己回顧を促す表現の作用は計り知れない.

このように、表現は、自分自身のメタファーを対象物から読み取ることにより、自己のメタ認知を可能にしていて、それが自己変容、自己肯定の促進にもつながると考えられる.

ここからは私の単純なる仮定ではあるが、もし、表現が、自己の内的な欲望によるものではなく、何かしらの外部の評価を想定して行われていた場合、上記のようなメタ認知の望みは薄いのではないだろうか.

その時点で表現者が感じているものは自己自身ではなくなり、他者が求めるものになっているからだ.

ある種の自己承認欲求をもとによってとりおこなわれた表現の中には、純粋なる自己との対話という構造は生まれないであろう.

By @Hidemaro in
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